極楽デビュー作3連発

Self‐Reference ENGINE (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)

Self‐Reference ENGINE (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)

SF書きの人たちが陸続と長篇でデビュー中。しかもめちゃめちゃレベル高っ。すごい活況です。
いやほんとうにいい時代ですねえ。(飛みたいなリタイア直前のロートルは、危機感も薄めでありまして、わりと余裕で模様眺めをしておりますですよ。)
まずは、何はさておき話題沸騰の黄表紙Self-Reference ENGINE』。
飛は本書の帯の文を書かせていただくという栄誉に預かっておりますが、しかし、版元から送ってきたゲラの冒頭3ページ読んだだけで「これはいったいどう紹介すればよいのか」と頭をかかえました。まあ想像してみてください、わずか200字でこの本をお勧めするのがどんなにたいへんなことかを! ま、でも「ああ『自然を使って演算するってそれは〈ソラリス〉かあ』」と気づいたら楽になって、10分くらいで書いちゃいましたけど。
意識したのは読者の警戒心とガードを下げることで、だから「断片」とか「バカ話」とか「ジョーク集」とか口当たりのいい単語を並べてみたんですが、でも、この本への圧倒的支持を見ていると、ああぜんぜん心配する必要はなかったなあ、と安心しました。
あの文章はおちゃらけているようですけれども、精読していただければ本作が「シンギュラリティ×複雑系SFだ」ということもちゃんと指摘していることに気づかれるでしょう。(じぶんも読み返してはじめて気がつきました)。また、この本は終盤のあたり、ちょっと胸をうたれるようなリリシズムもあって、これがまた普通のセンチメンタリズムでは絶対醸されない種類の情感なんだよね。
改めて念のため、ただの「バカ話集」じゃないことだけ、もいちど強調しておきたい。
 

ジャン=ジャックの自意識の場合

ジャン=ジャックの自意識の場合

おなじくハイブラウな装幀で登場した本書は、ある意味『Self-Reference ENGINE』よりも紹介が困難。いったいどう説明すればいいのか、いまもよく分かりません。
プライベートな教育空間で飼育された少年少女が養親殺しの果てに脱走を企てるところからはじまる本作は、その場面が持つ力を初期モーメントにした柔らかな銃弾となって、作者のイマジネーション空間内で奇っ怪極まる跳弾をくりかえしていきます。やがて終盤やや手前でこの跳弾にSF的な説明が与えられ、飛なんかは途中で「もう説明はないんだろうな」と思っていたものですからびっくりしました。
本作の眼目はこの弾丸の跳ね具合、そのしなやかな運動神経に尽きますが、しかしそのジャンプ力やイマジネーションの接着力は、小説のものというより批評の方に近いように感じられます。(あとがきからの先入観かもしれませんけど。)
ただ、その両者は厳密にはあんまり違わないものなので、飛も体調が違っていたら別の感想だったかもしれません。それに最後の落とし方、あれはどっちかというと、やはり小説の技でしょうね。ちなみにどうでもいいことですが、飛もトイレであれをもらったことがあります。(中学の時。)へへへ。


虐殺器官 (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)

虐殺器官 (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)

読みながら、あ、もう「象られた力」(旧版)は用済みになったかな、という感慨が脳裡をかすめました。かろうじて新版はなんとか首の皮一枚でつながっている模様。いくつかの素材は『ラギッド・ガール』ともニアミスしています(「器官」とか)。
ウェブの感想で見かけるとおり山田正紀氏の作風を連想させるところもあり、なにより本作の強烈なラストで飛が想起したのは、ほかならぬ小松左京氏の短編のいくつかがたしかに孕んでいた残忍さやニヒリズムであったりしました。というわけで飛が感じたのは「これは短編のネタだ」というもの。
ところが本作の眼目は、にもかかわらずこれが長篇として書かれることで、日本文系SFの系譜のひとつが最高の形でアップ・トゥ・デイトされた、という成果を見ていることにあります。
というのも……あとはめんどくさいので略(笑)。
読み手には充実した時間を約束し、書き手にはいくつもの啓示を与えてくれる作品。感謝。