上京します。

MacBookの具合を診てもらい、
お茶の水に届けものをして、
SF作家クラブの総会と日本SF大賞贈賞式に出席します。

選評はまた『SFJapan』に掲載されるので、よろしければお読みください。
選考はじぶんの「眼力(がんりき)」が人目にさらされるということで「はは、こんな読み方しかしてないんでヤンの」と笑われるの覚悟でと言うことになります。

前回の選評を、ここにのっけておきます。(自戒の意味をこめて。)
ネタバレもありますので、ご注意を。

 『失われた町』が部落差別やハンセン病問題をはじめとする差別問題を念頭において制作されたことは疑いない。それを寓意の図式にとどめず、その先に触れようとした意欲も分かる。だからジャンルSF的な〈小理屈〉は要求すまい、と決めて読んだ。面白い部分はあるし、結末をあの黒で締めたのは意外でうれしかったが、問題も多い。本作は、章を追って〈町〉攻略の「道具」や面々が揃っていく筋立てなのだが、その道具のリアリティと物語の日常のリアリティの標高がさっぱりかみあわない。せっかくの道具は小奇麗なガジェットに成り下がり、人物に課された試練は読者に何の試練ももたらさない。あと、作者は読者に委ねるべき事柄を先回りして説明しすぎと思う。その結果、人権啓発ビデオのナレーションにも似た、聞き覚えのあるフレーズが連発されることになる。ひとはそれをクリシェという。これもまた読者を遇するやり方には違いないのだが。

 『虐殺器官』は二度読んで、まったく異なる印象を受けた。一度目は、いまここにある世界の諸相を、あるSFアイディアを視点――光源に据えて〈レンダリング〉した作品と読んだ。息呑む解像度で描画された世界のジオラマは疼痛の光を帯び、金属的な後味が読者の舌に長く残る。さて、二度目に読むとき、本書は、語り手〈ぼく〉をかろうじてこの世に繋ぎ止めているリアリティ――生と死、意識と無意識、認証と安全の関係、痛さと痛みの違いなどが淡々とスイッチ・オフされることで、かれの内面にあるもの(それは冒頭から予告されている)が成就し、〈ぼく〉が完成する、その過程を描いた作品であることがわかる。しかしこうして完成した〈ぼく〉の肖像は、まさに今あるこの世界の姿絵であり、ここにいたって本作のふたつの顔は同じ硬貨の両面だと明らかになる。素晴らしい。ただ引っかかるのは彼にとって真に切実なものは、すべて他者によって奪われている点。〈ぼく〉は、やはりルツィアの器官に触れるべきではなかったか? そうすれば彼女を魅力的に描けたろう。でも、それは私の趣味に過ぎない。この無力感、鈍麻感こそが本作の面目なのだし、彼にとってルツィアは本当はどうでもいい存在であること、この恐ろしさに我々は震え上がるべきだろう。

 小説を「書く」とは一行、一字を不断に選びつづける行為であり、テキストは事後の痕跡にすぎぬ。書き手が真にさわりたかった場所は、書かれたものと書かれなかったものの「あいだ」にあるが、そこに直接手を触れることは不可能であり、いかなる書き手もこのもどかしさに堪えるほかない。
 さて、円城塔の本からは、まず「理論の理論」「法則の法則の法則」、重なり合う論理階層へのつよい執着が読みとれる。また無限のなかに「穴をあけること」で結果的に意味を〈切り出す〉ことがくり返し述べられる。――以上をまとめて思うに、巨大知性体の演算戦は、上位者が〈無〉を作らせるために操作している。その穴を用いて、宇宙のどこか高いところで意味を切り出すために。もちろん同様な構図はより下の論理階層でも、さらには、たとえば小説家や読者の内部でも生起している。〈無〉を生み出す演算のひしめき、その無限の階層、それがSelf-Reference ENGINEであり、結果として〈わたし〉(及びその連鎖)が成立する。本書はこのような認識をめぐる脱力遊戯である、と私には読めた。そう思えばさほど難解でもない(自信なし)。――さてその結果、本書の最終章では「ふんっ、わ、私は何も『書いて』なんかいないんだからねっ」(大意)という文章が立ち現れる。いやはや。これほどまでに「あの場所」に近づいた本を私は知らない。

 『星新一 一〇〇一話をつくった人』。
 非常な大作でその価値は多岐にわたるが、ここではひとつだけ言及する。私がもっとも胸打たれたのは、終章の結尾、ハワイの砂浜に立つ星新一の後ろ姿に妻香代子の声がかぶさる箇所だ。この場面は最初の著作『生命のふしぎ』とひびきあっているのだが、ここで思い起こしたのは、昭和三一年の日記にしるされているという「今日あたり死のうかな」の一文だった。父の逝去と事業の崩壊、友人の自殺、階級の解体――そして敗戦という国家の死。この「死後」を生きるために新一はSFを書く途を選んだが、しかしこれは、程度の差はあれ他のSF作家たちも(読者さえ)同じことだったろう。「SFを生きる」ことで、星新一は、第一世代のSF作家は、そして少なからぬ日本人は、生きることができた。日本にとってSFとはまずそのような恢復の術であったことを、これほど見事に明らかにした本はない。この術は、おそらくは呪いであろう。しかしその場面を未来へ向けて押しひらくことで、最相葉月星新一の人生を(かれとSFが出会えたことの僥倖を)かぼそい祝福の光で照らしてくれた。この点において、私は本書を大賞に推した。著者には最大の感謝と敬意を捧げたい。