味覚のフォーミュラ

……についての記述を松浦晋也氏のブログで見つけ、発泡酒だろうが、雑酒だろうがなんでも平気な飛(そう、ここで何度も「ものの味がわからない」とかいているとおりです。)は、うんうんなるほどと頷いたり。(だめじゃん)
しかしこの考え方ってなかなか面白いですね。
というか、味覚に限らず、人間は日常生活の過半をこんなふうに処理してやり過ごしているんじゃないかなあ。
などと思ったのは、「SFマガジン」7月号の鹿野司氏のコラム「サはサイエンスのサ」を読んだせいもあるかも。
鹿野氏は、運動性失語状態と関係の深い遺伝子がかかわる脳の場所(ブローカ野)が、アクションの理解にも大きくかかわっていることに触れつつ、しかしブローカ野の機能は「アクションを運動として捉えて、それを認知するということではない」のでは、という考えを提起しています。
え、アクションを運動としてでなく理解するって、どういうこと? と思うでしょう。
つづきはぜひこの記事で読んでください。かなり刺激的でした。そうか、それで運動の認識と言語の認識がつながるのか、と思わず納得してしまいました。*1
で、誤解をおそれず飛なりに表現すると、ブローカ野の機能とは「感情移入」になるのではないかと。
あっ! なんか聞いたような話ではないか!!(笑)
えー、話の前段と後段がつながっていないですが、気にしないように。飛の中ではつながってるんです。
つまり何が言いたいかというと、人間はあらゆる外部をモデル化して内部でシミュレートしているのではないか、ということ(見方をかえると森羅万象に「自分」を投映していることになる)。そんな微細なシミュレートが無数に集まって動いている全体が、つまり「わたし」なのではないか、ということ。(以下、『空の園丁』につづく。)

*1:このコラムの前半部とよく似た記事が鹿野氏のブログ)で読めます。