日本SF大賞選考会

あしたの午後開催されます。今日の夕方に上京する予定。
去年もやりましたが、身を引き締める意味もこめて、飛の昨年の選評を再掲。
もうね、作者の人に張り倒されそうなことばかり書いています。

 『電脳コイル』が首位、僅差で『Boy’s Surface』、やや離れて『赤い星』という考えで選考会に臨んだ。
 『電脳コイル』は「小学生が大笑いしまたドキドキしつつ観る、良質な連続SFテレビ番組」というけっこういまや困難なカテゴリを、基礎から建設し直そうとした試みであり、それに成功し真摯な成長譚として心に響くものとし得た、そうした業績である。特に後半は素材の整理にてこずった感があるが、本作にかぎってそれは瑕疵でなく、この達成のやむをえぬ代償と考えたい。精緻に組まれた人物配置、考え抜かれたダイアログ、「大きいお友達へのご奉仕」をさらりと排した自恃、ラストシーンに通う風の清冽さ、そのすべてに拍手を送りたい。年少者に最新かつ最高のものを届けようとすること、その知性と精神に敬意を払うこと、それこそは日本SFのかわらぬ流儀であった。

 サイエンス・フィクション、というとき、そのSはふつう具象(おどろきの新発明や異星の景観など)の形をとるし、理論じたいを扱う場合も作家は即物的なお話しを用意する。ところが円城作品の蓋を開けると、裸のサイエンス、抽象的なプレゼンムービーが踊っている。目を凝らせばその高次元モデルは微細な活字で描画されていて、色々縦読みできるよう仕込んであるのだ。ふつう小説家は(研究者は)ひらめきを得るとペンを執って脳内ぐるぐる状態の対称性を破り、相転移の結果、お話し(または論文)が書かれる。しかし円城は、お話しと見えるものが計算であり計算と見えるものが人生であるような、相転移以前の状態を「ぽわーん」と出現させる(古事記や禅の引用に注目されたし)。これはもはやサイエンス/リテラチャと呼ぶべき新境地である。しかし、そのため作者が費やす資源量はあまりにも膨大でかつ圧縮されすぎている。もすこし地球にやさしく、と言いたいが、目下これに代わる技法があるとも思えない。読者も作者も選者も途方に暮れて、私はまだ『Boy's Surface』を第一位とする確信を得られない。

 『赤い星』のあとがきは曲者だ。これを読めば、だれだって「口上」に高野史緒の地声を聞くだろう。しかしこの口上は露→日に差し出されたものとも読め、さすれば「あの夢想」は実は逆向きであったかもしれず、かくて江戸もロシアも霞と消えて実在するのはこの小説ばかり。本書をこうした宙吊りの幻想装置となす作者の手妻には膝を打つ。しかし子細に見ると、たとえば、本書がロシアに投げるまなざしの左目(僭主のプロット)はクレムリンを向いているのに、右目(おきみのプロット)はペテルブルクを見つめている事に気づく。この地政学的斜視に作者は十分な解決を与えないので、私はまなざしの先にあったはずのものをついに立体視できなかった。本書はこのような失望や行き止まりに事欠かない。むろん手妻の種をすべて明かす必要はない。しかし、かくも絢爛たる意匠を鏤め、また封印列車到着の段にあれだけの霊感を与えながら、読者の現実がさっぱり揺るがないのは何故だろう。――とはいえ本書のもうひとつの手柄、クイズ番組に事寄せて日本(とその欲望や想像力)がいかに米国に接着してるかを暴いた点は特筆大書せねばならぬ。この接着面を引きはがしてみせる手技には、SFがもつ批評性のみごとな発揮があった。

 山本弘の近年の充実は、だれしも認めるところだろう。『MM9』は〈パトレイバー平成ガメラ〉の趣のある小品で、大技小ネタはばしばし決まるし、盤石のSFだし、とにかくべらぼうに面白い。そして私は、まさにその面白ぶりに抵抗と――倦怠を感じた。なにもかもがあまりにも「内向き」であるように思われたのである。本書には、作者おとくいのオタク文化讃美や反知性的態度への批判が顔を出さない。それすら必要ないほど、本書はゆるぎない自明さの中にある。それが悪いといいたいのではない。ただ、私の目には本書の怪獣が、精魂込めたフィギュアと映った。ツボを押さえ蘊蓄をかたむけて通をうならすけれども、咆哮も足音も聞こえない。かつて怪獣はただそこにいるだけで世界に気持ち良い風穴を開けてくれた。本書は、そんな素晴らしい奇跡は二度と起こらないのだと、優しく読者を諭してくれる。

 モダンホラーの書法と破滅後世界は相性が良い。貴志祐介はこのポイントをジャストミートし、腕力にものを言わせて場外へ運んだ。社会の村落化、生物の変容、共同体の禁忌、呪術的世界感覚、破滅の原因、これらは互いが原因と結果になるよう堅固に編みあげてあり、それがゆるがぬ基盤となってこの大部な物語をささえる。長大なクライマックスを書き抜く筆は粘りに粘るし、和風の命名感覚は作品世界に既視感と違和感を両立させて効果的だった。私個人としては、あえて採用したこの文体であるならなお数段の錬磨を望むし、せっかくのご馳走はもう少し選び抜いてサーブすべきだったと思う。しかしこのリーダビリティと量感の相乗は、ぶあついステーキを所望する読者に幸福な満腹感と新鮮な驚異をもたらすだろう。『新世界より』は「このSFを読みたまえ!」と広い範囲に差し出す値打ちがある。この点において私は授賞を主張する委員に同意した。

しばらくご無沙汰つづきでしたので、すこしまとめてエントリしてみました。それでは「NOVA」、よろしくお願い申し上げます。