BSアニメ夜話「カリオストロの城」

録画を早起きして視聴。
大地丙太郎氏の言葉。「アニメは動いてなんぼ。止め絵がいくら美しくてもしょうがない。それはアニメででなくてイラストレーション」(大意)。
うんうんうん、と同意。
小説の文章も実は同じだと考えています。もちろん止めて眺めて美しいにこしたことはないのですが、どちらをとるかとなったら躊躇なく「動きあるものとしての文章」。
いぜん「飛浩隆作品集」のあとがきにも書きましたが、飛の文章は「ヘタ」だと自覚しています。日本語の正しさとして「なってない」ところがたくさんあります。
しかし(言い訳めきますが)小説は止め絵ではない。「読む」というのは「行為」であり「運動」なのであって、大事なのは一文一文のスタティックな美しさではない。よく作家の方が音読したときの心地よさを大事にしているといわれるのは、そのような、読み手の身体に働きかけることの……宮崎+大塚アニメのあの身体が沸騰するような快感を思い出してみましょう……重要性の証左でしょう。いま書いている文章が読み手の中にどのような状態を引き起こすか……予測は不可能に近いことですが、すくなくともそれを念頭に置きながら、作業をしています。

しかし(話をもどして「カリオストロの城」)、番組では話に整合性がないとか言われてますが、何度視聴しても構成力の途方もない高さに感嘆しますね。無駄なカットがないどころではない。たとえばルパンと次元が侯爵邸の廃墟から湖と時計塔を一望するシーン。夕暮れの湖面に時計の鐘の音がたなびいていく、このゆったりさはルパンの無言の回想のために必要なものです。しかしこのとき映画の別のレイヤでは、城と侯爵邸と湖の位置関係を「音」で包み込むことで観客に伝えているのです。この「音」は伯爵絶命直後の時計の連打と呼応することで、観客に「ああ、いま映画の流れに『ここぞ』という楔が打たれた」と直感させます。また時計塔と湖の関係が最後に明かされたときも、唐突に感じない……。全編にわたって、このレベル。まるで組み木細工のようにていねいな仕事が施され、それだのに「精密な作り物」という印象をさらさら与えない。