欲望

エンターテインメント小説は読者の欲望に奉仕しようとし、純文学は作者がじぶんの欲望をさぐるために書かれる。
いや、もちろんこの中間には無数のスペクトラムがありえます。現実にはこれほど極端ではない。
それに作者と読者の欲望は必ずしも別とはかぎらない。さらには作者の欲望に触れることが読者の快楽につながる場合も往々にしてあって、さらにいうと作者はエンターテインメントのつもりでもじつはじぶんの欲望ばっかりまさぐってるとか、「純文学」といいながらだれもが「純文学」と思うであろうその外見だけを緻密に模倣している(「純文学を読みたい」という読者の欲望に奉仕している)とかといった〈倒錯/作〉もあるわけなので、こまかく見て行くと収拾がつかなくなるのですが、まあ私の言いたいことも理解していただけるのでは、と。(長いよこのセンテンス。)

たとえばかいけつゾロリシリーズなどはエンターテインメントの究極の一形態で、これ、ほんとうに年少読者の欲望の機微をすみずみまで舐めあげていく本ですね。子どもの脳に仮想エステを掛けているようなものデスよ。子どもはきっと「うは〜、こたえられんな」(←おやじ声で読むこと)と思いながら読んでいるんだろうとわかります。
ハリウッドのロマコメなんかもそうで、たまにはストーリイはおいといて(そんなんどうでもええでしょう)画面の中で何が起こっているか(だけ)を見てみましょう。心地よい時空間で観客をもてなすことに、いかに物凄い物量と智慧が動員されているかを。あらゆるシークエンス、一画面一画面が計算し尽くされたグラビア〜な色であふれています。その色の一つ一つに目を凝らしてみると、それは厳選されたファッションであったりインテリアであったり、アクセサリであったり髪形であったり、スノッブなホテルであったりオフィスのクールで「お仕事もしっかり」なイメージであったり、フォトジェニックな街角や歩道に舞い散る紅葉の赤や紺碧の海であったり、きらめくカトラリーの触れあう音や飲み物の温度感や料理のテクスチャやテーブルクロスの美しい皺が想起さす布の厚みとなめらかさであったりして、それがアクセルとブレーキを巧みに使ったテンポのコントロールに載って、シズル感を粒立たせながら画面からこちら側にごわわわっと押し寄せてくるのが分かります。これも、もちろんエステですね。(長いよこのセンテンス。)
学ばなければいかんと思いますね。
読み手の欲望をざわめかすこと、揺さぶりおこすこと。
まずはなによりそのようなテクストでなければ、と思っています。ありとあらゆる手管を使って読み手をつれまわし、そうして次第に作品の奥へご案内していって、作品に私が仕掛けた真の欲望(だれのものでしょう? いろんな場合があると思います。)に触れてもらいたい。読み終えたとき、いままで持っていなかった(あるいは気がついていなかった)欲望を伴って、帰っていってほしい。
そんなことができたなら(ああ、ほんとうにそんなことができたら!)、小説書きの冥利に尽きるというものです。